第2節 ディエゴ・リベラ
これが「蛙のような醜い顔」呼ばわれなディエゴですよ( *´ノェ`)コチョーリ
写真だとこんな感じですね♪絵の方がちょっとおじいちゃんです。。
!!Σヽ(゚Д゚○)ノ
途中補足として(こうした水色の字で)いろんな情報が入ってきますのでご注意ください。
それから名前の部分に(日本語なら日本語サイト、ローマ字ならほぼ?英語のサイトで別々に)リンクが貼ってあります。
これは海外サイトの方が多く作品が見れるので、分けてリンクをつけました。
ご参考ください。
ポルフィリオ・ディアス(José de la Cruz Porfirio Díaz Mori, 1830-1915)
関係ないけど・・誰かに似ている…c(゜^ ゜ ;)ウーン
夏目漱石?!
政府が長期に渡って推し進めた外国資本依存の近代化政策は、海外投資家と裕福な白人階級、一部のエリート層にのみ利益が集中し、農民たちは貧困に喘ぐといった悪質な社会・経済構造を作り上げていたのでした[ii]。
20世紀に入ると、こうした圧政に対する反対や、改革を叫ぶ声が社会の各層から起こり、1910年、ついにメキシコ革命が起こったのです[iii]。
しかし、キュビズム[v]のパリで規定された概念に縛られることのない、より自由な芸術表現の追及に没頭していたので、この大事件に参加する事を妨げていたようです[vi]。
こちらはキュビズムで有名なパブロ・ピカソ(Pablo Picasso, 1881-1973)が描いた1937年の作品、ゲルニカ(Guernica)です。
余談ですが、ピカソって気難しい人なんですが、こんなかわいらしい一面ももってるんですよね♪
この写真は20世紀の代表的な報道カメラマン、ロバート・キャパ(Robert Capa, 1913-1954)が撮ったものなのですが、写真を撮られることが嫌いなピカソも彼の前では心を開いていたようです。
そうでなければこんな写真撮れないと思います。おじいちゃんと孫。゚+。:.゚ヽ(*´∀`)ノ゚.:。+゚
このロバート・キャパとフリーダの夫、ディエゴとの接点もあったりして( *´ノェ`)コチョーリ
途中でキャパの文献に寄り道をしていたときにキャパがディエゴの写真を撮ってた気がします。
でも残念ながらかすかな記憶なのでこれ以上はなんとも言えません・・。
もとに戻ります・・
ディエゴがふたたびメキシコの生活を始めるのは35歳の頃であり、また彼のまわりにはふたたび、同じように新しい表現を模索し、同じように共産党の活動に惹きつけられた画家や芸術家が集まっていました[vii]。
一方フリーダ・カーロの方はというと、マデーロ(Francisco I. Madero, 1873-1913)の呼びかけの際は3歳であり、コヨアカンの彼女の生活が、メキシコの大事件によって煩わされる事は殆どなかったと言います[viii]。
たとえ二人がともに、ポルフィリオ・ディアスの時代の恩恵を受けていたプチ・ブル[ix]の出であろうと、ディエゴとフリーダは同じ政治体験をしたわけではなかったのです[x]。
国の歴史と革命の理想を主題としたこの国民的芸術運動の中心にいたのが、ホセ・クレメンテ・オロスコ(José Clemente Orozco, 1883-1949)やダビッド・アルファロ・シケイロス(David Alfaro Siqueiros, 1896-1974)、そしてディエゴ・リベラです。
ホセ・クレメンテ・オロスコ(José Clemente Orozco, 1883-1949)
オロスコの場合は、メキシコ社会・メキシコ革命といった、ナショナルな問題、国際的な見地からはあくまでローカルな問題意識というものを超えて、普遍的な人間の問題を追及していった作品が多く見られます。
こちらの作品は、1937年にグアダラハラ市の州政庁の天井から階段部にかけて描かれた「戦うイダルゴ神父」という作品になります。
彼(ミゲル・イダルゴ, Miguel Hidalgo y Costilla, 1753-1811)はメキシコ独立運動の際に指導者となった人でした。
神父が振り下ろした松明で焼き払おうとしているのは、資本主義の害毒ばかりではありませんでした。
それはナチスのハーケンクロイツもソ連の鎌も、そして驚くべきことにカソリックの協会までもが対象とされていたと言われています。
もちろんイダルゴの時代にはナチもソ連もありませんでしたから、オロスコの思想だと思われるのですが、権力の全てを否定するその激しさが見ているこちらのほうにまで襲い掛かってきそうな剣幕ですよね。
ダビッド・アルファロ・シケイロス(David Alfaro Siqueiros, 1896-1974)
シケイロスは外国資本勢力とディアス独裁政に対抗して民衆と農民の力を終結し、これとブルジョワジーの利害とを一致させて社会の不平等を更正していこうという社会理念をもっていました。
もともと彼の描く作品は、激しくて何か押し付けてくるようなものが感じ取れる作品ばかりなのですが、1956年ごろから、支持体をフラットな平面ではなく三次元的な厚みを加えたものにするようになり、それがますます訴える力を強くしているようにも思えます。
このようなタイプの作品はシケイロスが自らそう呼ぶようになったので「彫刻的絵画」と呼ばれるようになりました。
そしてこちらの作品は、「the Dictatorship of Porfirio Diaz to the Revolution (detail), 1957–65」ですが、これは何を描いたかというとディアス政権に対して不満を持った人々が今にも反乱を起こしてやるぞッ!って瞬間だと思われます。
これは彫刻的絵画ではないのですが、発見したのでハリハリしました☆
この壁画運動はメキシコ革命の過程で明確に形成されてきた、革命勢力同士も一致して反米、外国勢力排除の姿勢をとるという、メキシコ人としての民族意識を高める文化活動であり、革命を国民全体の共有財産として歴史の中枢に刻み込む作業で、長らく文化的な支配を受け続けてきた西欧に対する、メスティーソ文化の挑戦でもありました[xii]。
メキシコ市におけるディエゴの最初の仕事は1922年の国立予科高等学校、サン・イルデフォンソ学院の講堂に描かれた「創造」でした[xiii]。
メキシコの歴史(部分)
フリーダと、その妹が描かれているのがわかるかな?
メキシコでは識字率が低かったため、壁画は新たに誕生した社会を国民に自覚させる有効な手段となっていました[xiv]。
20年代の早い時期からディエゴ・リベラはメキシコ本国だけでなく、アメリカ、ヨーロッパにおいても大変な人気壁画家であり、30年代にはフォード(Henry Ford, 1863 -1947)やロックフェラー(John Davison Rockefeller, 1839-1937)ら大資本家たちが競って、共産主義を標榜していたディエゴをアメリカに呼びよせ壁画を依頼したほどでした[xv]。
大ボラ吹きで残酷で、粗野かと思えば途方もなくやさしく、パリ遊学で培われ洗練された感覚と知性に溢れ、その桁外れの仕事への情熱と才能は会う者すべてを圧倒したと言われています[xvi]。
一方フリーダは必要であれば、ディエゴとともにデモの最前列を並んで歩くことはあったが、フリーダ自身は政治的闘争においてディエゴよりも関心がなかったようです[xviii]。
ディエゴ・リベラ 「兵士に武器を配るフリーダ」(1928)
デモ行進で最前列を歩くディエゴの後ろで歩くフリーダ(1936)
彼女にとっては、自分が愛する男が行う政治的冒険に対し、彼についていけばこと足りてしまったのです。
彼女にとって絵を描くことはディエゴへの愛を語ることであり、その愛の苦しさを、この世におけるその限界を、またその愛の永遠性にたいする彼女自身の信念を語ることであったのである[xix]。
今日は、映画フリーダで使用されていたBGMが視聴できるサイトを見つけたのでご紹介します(o^-^o)
下の画像をクリックすると飛べます

【注】
443ページ。
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フリーダ・カーロは、メキシコのオアハカ出身の母とハンガリー系ユダヤ人の父の間に1908年7月6日に生まれました[i]。
そしてその47歳という短い人生の中で描いた作品数は200点ほどとされています[ii]。
彼女の絵画は、小児麻痺、交通事故、生涯で30回以上受けた手術、流産で受けた身体の痛みに加えて、夫であるディエゴ・リベラの度重なる裏切りが心を苛み続けた結果生まれてきたと言われています[iii]。
1937年に描かれた「乳母と私、あるいは、乳を吸う私」という作品の中で、この乳母はフリーダのメキシコ的血脈の具現者として登場し、彼女自身もその胸に抱かれています[v]。
「乳母の乳房から吸った栄養、一滴一滴、彼女の口に流れ、彼女を永遠にアメリカ・インディアンの宇宙に結びつける超自然な乳汁に対する信仰を描いている」[vi]のです。
「乳母と私、あるいは、乳を吸う私」(1937年)
さらには鋼鉄の手すりが膣部から下腹を貫通し、腹部に深い傷を残してしまうのでした[viii]。
事故の後遺症から肉体的苦痛をくり返しテーマとした自画像が多いフリーダでしたが、代表作の大半は、夫リベラから受けた精神的苦痛を視覚の世界に吐き出したものでした[ix]。
こうして自己を見つめ、自己を描くことで逃れられない現実の痛みを癒していったのではないかと考えられます。
~彼らの作品から垣間見られるもの~
<はじめに>
彼女は、メキシコのオアハカ出身の母とハンガリー系ユダヤ人の父の間に1908年7月6日に生まれ、僅か47年でその人生を終えます。
彼女が人生の中で描いた作品数は200点ほどとされていますが、その絵画は、小児麻痺、交通事故、生涯で30回以上受けた手術、流産で受けた身体の痛みに加えて、夫であるディエゴ・リベラの度重なる裏切りが心を苛み続けた結果生まれてきたとも言われています。
実際に、彼女の作品を見ていると、彼女の生き様やそこから表れ出る言葉にならない叫びや歓喜の声が彼女の絵画から聞こえてくるように感じられます。そしてそこにはいつも「なぜ」「知りたい」といった感情を持たずにはいられなくなるのです。
そして、社会的、身体的ハンデを抱えながらも、愛と芸術に生きた女性画家、フリーダ・カーロの作品を目にし、彼女の作品の中に当時のメキシコの「やるせなさ」を見出しました。
また、実際にメキシコ革命で始まった壁画運動の作品群を目にし、当時は壁画の知識も殆どありませんでしたが、時代を超えてその当時のメキシコの華やかさや痛ましさが伝わってきて、想像していた以上に感動したのを覚えています。
そうした感動経験がもとで、にゃんこはフリーダ・カーロと、彼女の生涯に興味をもつようにまりました。
今後は、彼女の作品の考察を通じて、彼女が残した作品の中に込めた想いがどのようなものだったのかを探っていきます。
そして、彼女の夫でもあり、メキシコ壁画運動の時代に活躍した三大壁画の巨匠のうちの一人であるディエゴ・リベラ(DiegoRivera, 1886-1957)の存在が、彼女の人生や作品に影響していった模様を考察していきたいと思います。
また二人をめぐる人々の係わりを通してわかる、フリーダとディエゴのメキシコ人としての感覚や思想を探っていきます。
メキシコの女性画家フリーダ・カーロとメキシコ壁画巨匠ディエゴ・リベラ~彼らの作品から垣間見られるもの~
【概要編】はコチラのページ。
にゃんこの学生生活の集大成として研究してきたもの。
今日やっとみなさんにもご紹介できそうです(o^-^o)
長い連載ものになると思いますが、時間つぶしにでも読んでみてください。
もともとの論文を少しわかりやすくやわらかい表現に書き直してあります♪
語尾「です・ます」「である」調ありますが、整えられなかったのでそこら辺はご了承くだされσ(>ε<;)
それではどうぞよろしく(*- -)(*_ _)ペコッ
フリーダ・カーロとディエゴ・リベラ
~彼らの作品から垣間見られるもの~
<概要>
ニューヨークのカーロ(26歳)と
ディエゴ(47歳)
メキシコの女性画家として知られる、フリーダ・カーロ(Frida Kahlo, 1907-1954)は、18才の時に乗っていたバスが交通事故に遭い、鎖骨・肋骨・脊椎・骨盤が砕けてしまう大けがを負うが、それをきっかけに絵の世界に入る。
後に21才も年上の、すでに名声をとどろかせ、メキシコ壁画運動の時代に活躍した三大壁画の巨匠のうちの一人でもあったディエゴ・リベラ(Diego Rivera, 1886-1957)と結婚をするが、二人の結婚生活は始めから平穏ではなく、事故の後遺症でフリーダは流産をくりかえし、子供に恵まれることはなかった。
「ヘンリー・フォード病院」
ここででフリーダはリベラとの子を流産してしまう。
さらには夫ディエゴの度重なる浮気による精神的苦痛を、フリーダは言葉ではなく自らの作品、自画像の中で描くことによってその苦しみを癒していくようになるのである。
そしてディエゴがフリーダの妹(クリスティーナ)とまで関係を結んでしまったときにはフリーダも夫と離婚をする決心をするのだが、最後の最後にはやはり再度ディエゴと結婚するのであった。
「二人のフリーダ」
ディエゴはテワナ地域の民族衣装をこよなく愛し、フリーダにもそれをすすめていた。フリーダは愛する人の愛する服を喜んで着たといいます。
でもこの作品では、ディエゴに愛されぬ白いビクトリア風の衣装のフリーダ、テワナ風のスカートとブラウスのフリーダはスペイン的占領者の雰囲気と対照的にインディオとヨーロッパの混血のフリーダを表し、心臓は愛の苦悩を表現しています。ディエゴに見捨てられた自分の手を取り合い、2つの自己を血管で結び人格の二重を表している。鏡に映る自己を見つめるうちに内なる自己と外なる自己を持つ感覚になっていったと思われる。
「断髪の自画像」
ディエゴが浮気をやめないので、彼の愛した髪を切り、テワナ衣装も着ず、ディィエゴの服を着ている、復讐と怒りの抗議の自画像。男のようであるが、かろうじて、イヤリングが彼女を示している。
一方フリーダもディエゴの不倫に対する当て付けにディエゴ以外の人と不倫をするようになるのである。
そして彼女の恋の相手はロシアの革命家レフ・トロツキー(Lev Davidovich Trotsky, 1879-1940)や彫刻家のイサム・ノグチ(Isamu Noguchi、日本名:野口 勇、1904-1988)といった有名人が多かった。(有名人でなければならかった理由もあるのですが、徐々に明らかにしていきます。)
また、その愛情は異性に限ることはなく、同姓に対しても同じであり、多数のガール・フレンドを持ち、レズビアンの相手も多かったという。そして200点ほどの作品を残し、フリーダ・カーロは47才という若さで人生を終える。
イサム・ノグチ
トロツキー
彼女の人生においてディエゴの存在は不可欠なもので、またディエゴにとってもフリーダ同様不可欠な存在であった。
それを彼らの実際に書かれた作品を取り上げながら考察していく。
今回はまず、彼らの絵画や、彼らをめぐる人々についいてもっと知りたいという方にDVDをご紹介します。
フリーダ・カーロの人生は『フリーダ』という映画にもなっているので、
興味のある方はご覧になってみてください。
トロツキーを扱った映画では、『暗殺者のメロディ』というのがあります。
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【文献目録】
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日記も付けてるので
どーぞ(●´д)人(д`●)ョロシク☆
⇒ nyanko's fotolog
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どうもありがとー♪(*・∀-)☆
突然ですが3月末でCASPEEEのサービスが終了します。少しずつ下記サイトへ移動してますので★ヨロヨロ♪
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